城北法律事務所 ニュース No.78(2018.8.1)

弁護士に聞きたい どうして弁護士になったの?

1964年の片平キャンパス

弁護士 菊池  紘

■ 朝日新聞のかこみに

大学法学部の卒業アルバムを開くと、広い階段教室で行政法の講義を受けている70名あまりの学生の1枚の写真があり、その最前列に座っているのが僕です。

1964年初めの、ある日の朝日新聞のかこみ「地方大学の学生誌」で文芸評論家の古谷綱武はつぎのように書きました。
「また、菊池紘君は随筆『考えること』(『萩群』創刊号、東北大学法学部萩法会)で自分の生活を顧みて、こう書いている。『朝起きて登校して教授の顔を見て(講義を聞くのではなくお偉い教授の顔を拝むのだ)、帰って好きなことをして寝る。あるいは映画を見る。飲む。番丁をぶらつく。これが僕の生活だ。なんの変化も期待しえぬ、安定したなんの危険もない、いわば保護された生活だ。(略)だがこれでは十分でない。(略)いやあな感じというほかない』
そして古谷は怒りを込めて慨嘆します。「まことに味気ない。これが最高学府出身現代サラリーマン候補者の一部大学生の生活か。・・・・」

■ 憲法問題研究会
「味気ない現代サラリーマン候補者」とされた僕は、他方で学部の仲間と憲法問題研究会をつくり、起こされたばかりの恵庭事件をとりあげたり、いろいろな憲法判例を議論したりしていました。そしてこの年末の「萩群」2号で特集「憲法問題の現状」の冒頭に「憲法問題の概観─サンフランシスコ体制と憲法」を書きました。8年の歳月を費やして改憲作業を進めてきた内閣の憲法調査会が、この年にその「最終報告書」を提出したばかりでした。22歳の僕の文章は、気負ったまとめで終わっています。「かくて憲法改悪を阻止する民主主義のたたかいは『独占の反民主主義的政策に対抗した反独占的性格であり、平和の問題と独立の問題とその深部で結び付いた反帝民主主義の性格である』(上田耕一郎『思想」1960年12月号)」と。
この時期は自民党による憲法9条改悪の企てが現実性をもったときでした。しかしその野望は国政選挙で同党が3分の2を占めることができなかったため潰えました。

■ 教室から姿を消して

最前列に座って教授の講義を受ける僕の姿はこの頃までに消えてしまいました。教室に行かずに自治会の部屋などに入り浸るようになっていたのです。そこでガリ版でアジビラを刷ったりしました。

卒業アルバムには一人一人のスナップが載っていますが僕のそれは芝生の中庭に佇むセーター姿です。よく見ると抱えている本は長谷川正安、渡辺洋三らの「安保体制と法」です。そして学友の寺島のそれはタテカンの横に立つスナップです。「原潜阻止のため、法学部の全学友は団結して闘おう!」と大書されたタテカンは僕が書いたのです。この1964年11月には最初の原子力潜水艦シードラゴンの寄港に反対する全学のデモで東一番丁は端から端まで埋め尽くされました。デモの先頭が市役所に到着しても、出発を待って多数の学生が片平キャンパスに蝟集していたのです。文字通り全学あげての高揚でした。このとき安保共闘の呼びかけに応え横須賀と佐世保には23万人が集まりました。

学友の寺島もほとんど教室に姿を見せませんでした。翌年に卒業すると寺島は共産党の専従になりました。

こうした中で、僕は司法試験を受け2年の修習を経て弁護士になりました。25歳でした。

憲法問題研究会で議論した学友の中で3人が各地で弁護士として仕事をしています。ほかに研究会にはいませんでしたが日韓条約反対などを訴えて何度も東一番丁を歩いた学友で弁護士になった者は5人を数えます。いずれも今日までその地の憲法擁護の運動に役割を果たし続けています。