自由の抑圧と闘う弁護士への道
弁護士 平松真二郎
千葉県内の県立高校を卒業後、北海道大学法学部に進学するため、札幌に移り住みました。1994年冬、法学部の学生であった私は、たまたま大学の図書館で手に取った本が「ある北大生の受難」という本でした。この本は、戦争中、北大生宮沢弘幸が英語教師ハロルド・レーンに旅行談として根室飛行場の話をしたことが軍機の漏えいとされ宮沢が懲役15年の刑に処せられた事件の顛末を丹念に掘り起こした本です。
知識として知っていた言論弾圧事件はおどろおどろしいスパイ事件のような印象を持っていましたが、宮沢・レーン事件は、ささいな日常の会話が軍機保護法違反とされていたことを知り、国民の日常を奪う治安統制国家の恐ろしさ、理不尽さを感じていました。
1996年、大学3年生になって進路を考える際に、漠然と法律でご飯が食べられたらと考えていました。そのときは恩師の誘いもあり、やはり憲法こそが重要だと思い、憲法学を学ぶべく大学院に進学しました。司法試験も受験していましたが、熱心に受験勉強などすることもなく大学院生活を過ごしていました。よく言えば、好奇心が旺盛、悪く言えばあれこれ首を突っ込み一つのことに集中しない性格のため、学問を究める学者への道より、様々な事件を通じて権力による自由の抑圧と闘う弁護士のほうが性にあっているのではと思い、本格的に弁護士への道を目指すことにしました。1998年夏のことでした。
ところが、受験生としても、一つのことに集中しない性格が災いしてか、司法試験に合格するまでかなりの年月が必要でした。2005年に司法修習生となり、いろいろな場でどんな弁護士になりたいのかと聞かれ、さまざまな事件を通じて人権課題にとりくみ、憲法裁判に関わり、あたらしい憲法判例を作りたい、「難しい事件から逃げない弁護士でありたい」と答えていました。
2006年に弁護士登録。いざ弁護士になってみると、人権課題に取り組む、憲法裁判に関わるなど抽象的な目標を掲げていても……、そんな目標はあまり意味を持たないのではないか、大事なのは一つ一つの事件を適切に解決することに尽きるのではないかと感じるようになりました。また「難しい事件から逃げない弁護士」になるのも、目の前の一つ一つの事件に真摯に取り組むことからはじまるのだと思うようになりました。
これまで11年あまり、一つ一つの事件の適切な解決が、やがて人権課題の解決につながっていく、そして新しい憲法判例の誕生へつながると信じて東京「君が代」裁判、首都圏建設アスベスト訴訟、中国遺棄化学兵器敦化事件、福島原発被害東京訴訟、生活保護切り下げ違憲国賠訴訟など様々な事件に取り組んできました。
ひとまず紙幅が尽きます。なぜ、自分が弁護士という生き方を選んだのか、そして、その生き方を貫いているか、恥ずかしくない実践を積み重ねて、いつの日かその問いにまっすぐこたえられるような弁護士になれればと思っています。