城北法律事務所 ニュース No.63(2011.1.1)
目次
中国遺棄化学兵器事件 その後
国の責任を否定する結論ありきの判決でも
弁護士 平松真二郎
2003年8月、中国黒竜江省チチハル市内で、土中から毒ガス入りドラム缶が掘り出され、ドラム缶や周辺の土に触れた人たち44人が死傷する事故が起こりました。
今年5月、東京地裁は、被害者の請求を棄却する判決を言い渡しました。この判決は「中国に遺棄された旧日本軍の毒ガス兵器は、中国本土に広範囲にわたって存在していたのみならず、同兵器は、川や古井戸に投棄されたり地中に埋められた」ことから、国は毒ガス兵器を調査撤去する義務を負わないというものでした。判決の論法によれば、化学兵器という人の生命・身体に対する危険性の高い兵器を遺棄するという違法な行為を、広範な地域にわたって、多数回繰り返せば、国の責任が否定されるという不条理な結果となります。
第1次大戦後、毒ガス兵器の使用は日本も批准していたジュネーブ条約で禁止されていました。にもかかわらず、当時の軍部は毒ガス兵器を中国戦線で使用し、敗戦後、毒ガス兵器を多数、中国国内に放置しました。
判決は、旧日本軍が毒ガス弾を配備しなければ、敗戦時に中国に遺棄しなければ、被害が生じることがなかったという基本的な事実を無視しているというほかありません。被害者たちは東京高裁に控訴しています。さらなるご支援いただきますようお願い致します。
挑戦し続けています
弁護士 小林 幹治
昨年は体調は悪いなりに安定していたので多少の仕事もこなし無事過ごしてきました。そして「日本文学史序説」で推奨されていた大仏次郎さんのものを読んでみたくなり「天皇の世紀」に挑戦。パリコミューンや、ドレフュス事件を扱ったものは見ていましたが、日本を舞台にしたものは「鞍馬天狗」以外見ていなかったので「天皇」という言葉が題名についているので敬遠していたきらいもありました。幕末のペリー来航(1853年)の僅か一週間ほど前、東北の一隅・南部領の農民が3万人近い大人数で田畑を捨て集団となって隣国の仙台領に入って保護を求めた事件に驚かされました。私たちが教えられた歴史は、この時期はペリー来航一色でしたが、このような事件のあったことを初めて知りました。江戸時代、一揆は続発していましたが、農民が田畑を捨て他領に、または天領にしてくれなどという要求は封建制度そのものの否定、崩壊そのものです。
今「坂の上の雲」が騒がれ「明治」という時代が唱いあげられていますが、日本という国はその底辺でゆり動かされていたのですね。一揆ののぼり小旗に「小○」と書かれたものがあったそうです。私は何を意味するのか分かりませんでしたが、「困る」ということなのだそうです。
戦地からの手紙
平和や戦争について考える
弁護士 白鳥 玲子
両親も戦後生まれ(1951・52年生まれ)である私にとっては、戦争の悲惨さは知識として知っていながらも、実感としてはずっと遠いものでした。
2010年8月、夫の祖母が90歳で亡くなりました。葬儀の日、夫の祖父が戦地から送ってきた手紙を読ませてもらいました。その手紙には、幼い子(夫の母)は元気にしているかということ、部隊が立ち寄った中国の街が目新しいこと、帰ったときに土産話をしたいと思っていること。夫の祖母を思いやる言葉が、美しい文字でびっしりと書かれていました。
夫の祖父は、その手紙を書いた後、日本に一度も戻ることはなく、もう一人子どもが生まれたことも知らないまま、戦地で亡くなったそうです。夫の祖母は20代前半で未亡人となり、二人の子どもを一人で育てました。夫の祖母は70年近く、手紙を大事に保管してきたのでした。
戦地からの手紙を読んだ影響でしょうか。昨年は、沖縄の基地問題や朝鮮半島での軍事対立など、平和や戦争について特に考えさせられる年でした。
一歩ずつでも平和な世界が実現されるよう、祈って止みません。