城北法律事務所 ニュース No.80(2019.8.1)

弁護士に聞きたい どうして弁護士になったの?

弁護士 大山 勇一

1989年に高校を卒業して、東大をめざして受験するも失敗して、二浪目でようやく法学部に合格することができました。駒場キャンパスにいた2年間は学生寮である「駒場寮」(いまはもうなくなりました)にてのんびりと過ごして学生自治に刺激を受け、本郷キャンパスに移ってからは高田馬場近くの「学生交流会館」というところでアジアからの留学生のたくましさに刺激を受けながら、全体として楽しく過ごしました。

周囲には大学1年生時から司法試験をめざしたり、官僚(国家Ⅰ種試験)をめざしたりする人はいましたが、私は3年生のころからようやくエンジンがかかりました。法律の勉強は嫌いではなかったので、せっかくなので極めてみたいという思いと「難関」と言われた試験を突破したいという思いから受験を重ね、1998年にようやく受かることができました。

司法試験の受験生時代は、同じ受験生仲間と「勉強会」をつくり、図書館で朝から夜まで勉強をし、三食とも大学の食堂ですませました。食事時は受験生仲間に分からないところを質問する時間と決めていました(笑)し、夜の銭湯を楽しみとしていました。また司法試験予備校にも通い、模試の点数に一喜一憂しました。

司法試験合格後は、東大出身の合格者主催による司法試験祝賀会の取りまとめ役を担いました。一緒に企画を準備し進める楽しさを感じるとともに、困っていたら周りの優秀な仲間が助けてくれるものだなと思いました。その後は、「青年法律家協会」という人権と平和憲法を擁護する法律家の団体に誘われ、司法修習生だけでつくる部会の議長にさせていただきました。ハンセン病の元患者の方々の療養所に泊まり込みに行ったり、過労死の遺族の方のご自宅に行ったり、刑事冤罪事件の現場へ調査に行ったりと、まさに「現場主義」のフィールドワークを体験しました。こうした中で、権利救済のために奮闘するすごい弁護士がいるもんだと思うと同時に、そうした先輩に少しでも追いつこうという意欲がわきました。部会の仲間と幾夜も飲み明かし、日本社会の未来について語り合いました。

私の実家は鹿児島で、合格後は鹿児島で1年間の実務修習を受けました。当時は鹿児島の弁護士は少なかったこともあり、もともと私は鹿児島で弁護士になって、両親を安心させようと考えていました。ところが、城北法律事務所の先輩方に気に入ってもらい、3年したら鹿児島に戻ってもいいよと言われて、この事務所に入りました。1年目からたくさんの事件を共同受任させていただき、たくさんの経験を積ませてもらいました。ほろ苦さと歓喜の入り混じった刑事冤罪事件(二審で逆転無罪)も最初の接見から経験させていただきました。そうするうちに、東京で結婚し、東京で家を買い、鹿児島には戻らずに今に至っています。

私は幸いにして勉強がしたいと言えば学費を出してくれる両親がおり、また司法研修所での修習中も給料が出ましたから、経済的に困窮することなく念願どおりに弁護士になることができましたが、そうでない方も多いと思います。司法修習中の給費制度は不十分ながら復活させることはできましたが、「高すぎる学費」「貧弱な奨学金制度」の問題は全く解消されていません。障害を持って生まれた方の教育を受ける権利も不十分です。このたび自分の来し方を振り返る機会をいただき、あらためてこうした問題にも留意していくべきだと思う次第です。