城北法律事務所 ニュース No.82(2020.8.1) 創立55周年記念号
目次
弁護士紹介(1)
1968年 入所
菊池 紘 きくち ひろし
コロナ危機と城北法律のこれから
徒歩5分の光が丘病院にコロナが発生。ちょっとした怪我で退院を待っていた知り合いの方が、院内感染であっという間に亡くなりました。痛恨の思いです。この数か月、医師と看護師など医療関係者の大変な努力によって、かろうじて私たちの社会は生き延びています。構造改革の名のもとに、医療費の削減を進め、公的病院をないがしろにし保健所を減らしてきたことが、今日の危機を深刻なものにしています。また、非正規を拡げ「使い捨て労働」を野放しにしてきたことが、いま派遣やパートの雇止めとなって、人々の暮らしを困難にしています。
城北法律の55年は、東京北部の人々の権利と生活をまもることを旨としてきました。またその時々の問題に正面からたちむかい、この国の自由と民主主義をまもり強める課題に努力してきました。今かつて経験したことのない新しい事態にむかって、コロナの収束とその先のよりよい社会へ・・・・時代のこの要請に正面から応える城北法律の方向を、地域のみなさんとともに考えていきたいと思います。
1982年 入所
小薗江 博之 おそのえ ひろゆき
一貫して相談に行きやすい事務所です。
実は、事務所の依頼者名簿に、私の住所氏名があります。大学1年の時に、法律相談サークルにはいり、地域で「無料」法律相談(相談件数は年間50~100件)をしていました。直接弁護士に相談しにくいという背景がまだあったと思います。相談でわからないとき、事務所に来て、解決策を質問していました。そのため、何回もリピーターになっていた次第です。当時のサークルの仲間では、その後弁護士になった人が多いのですが、裁判官になった人(現在最高裁判所の裁判官をしている人も)もいます。
法律相談サークルは、関東大震災直後に結成され、大学の法学部では最も古い歴史がありました。弁護士が少ない時期には、区役所で法律相談を任されていた時期も長く続きました。また弁護士は、東京では銀座、日比谷、霞が関、など都心に集中し、気軽に相談できるイメージではなかった時期でもあります。
城北法律事務所は、55年前に北西部地域に開設しましたが、一貫して相談に行きやすい事務所であると思います。
1984年 入所
阿部 哲二 あべ てつじ
第一歩の気持ちを忘れずに
37年前に、弁護士としての第1歩を池袋で踏み出しました。当時の池袋西口には、芸術劇場もホテルメトロポリタンもなく、駅前の西口公園の脇をぬけて丸井の裏手の雑多な飲み屋街の中にある事務所に通い始めました。北口方面は、あやしげな風俗店と飲み屋が密集する地域で、通り抜けるのも困難だったような記憶です。
その後、北口方面の区画整理が進み、駅前の開発も少し行われました。当事務所も通りの正面に移りました。でも、やはり何となくこわい、などと言われる池袋西口です。バブルに踊り泡のように消えた人達はどこかに行ってしまったのか。バブルの崩壊、リーマンショック、東日本大震災、新型コロナ、その都度街の灯は消えますが、また新たな人が集まり、新たな街を作っていくのでしょうか。
裁判のIT化が進められようとしています。便利なところは取り入れつつ、変化に翻弄されないで、37年前の第一歩の気持ちを忘れずに、どこがゴールか分かりませんが、引続き弁護士としての活動を続けていきたいと思います。