城北法律事務所 ニュース No.85 2022 新年号 (2022.1.1)

目次

弁護士に聞きたい どうして弁護士になったの?
小さい自分の力を最大限に発揮できる職業だと考えて

弁護士 津田 二郎

私が、初めて法律家を意識したのは高校二年生の夏のことでした。進路選択の時期ではありましたが、私は特別成績が良いわけでもスポーツに優れているわけでもないために自己肯定感に乏しく、「これがしたい」「これならできる」という職業に思い至らず悶々と過ごしていました。1990年7月、兵庫県で、女子学生が遅刻を取り締まる目的で締められようとした校門の鉄扉に挟まれ死亡するという事件がありました(高塚高校事件)。

私の通学していた県立高校では、割合遅刻する生徒は多かったけれども、それを強圧的に取り締まるという発想は教職員の側にはあまりなかったように思います。

「学校に行こうとしていたのに校門に挟まれて死亡する」という事件の衝撃に、私はこの事件を解決する人になりたいと考えました。ここで浮かんだいくつかの職業の中に弁護士があったのは偶然でした。兄が当時法学部に通う学生ではありましたが、そのほかに身近に法律家はいませんでしたし、その時までに興味をもって弁護士という職業を調べたりしたことはありませんでした。

私が当時考えた弁護士像は、「全国どこの事件にも駆け付けられる。弁護団をつくって事件の解決にあたる。判例をつくると全国に影響を及ぼせる」というものでした。ちょうど縁があって高校生平和ゼミナールや高校生が自分たちのやってほしい授業を企画する「高校生講座」実行委員会に参加していた私には、個人でなく集団の力で発揮するという弁護団の活動には親和性がありました。また、飛び抜けた能力がなくとも集団の中でなら、自分も何かしら役立てるのではないかとも考えました。そして、一人の力ではなくとも、全国に影響を及ぼせる(次の事件を阻止できる)と思ったのもまた魅力的でした。自分が望めば全国の事件にかかわれるというのも、ただ来るのを待つだけよりも前向きに感じられました。高塚高校事件は、自己肯定感が乏しいなりに、自分の力を発揮したいと前向きに進路を考える契機となり、ぼんやりと私の進路に弁護士が現れました。

さて大学入学後、私は「人権ゼミ」というサークルに入って、弁護士を身近に感じながら、社会の様々な問題に触れ、被害の実態や解決の方策を考える経験を深めました。青春18切符を利用し普通列車を乗り継いで東京から水俣まで行って(30時間くらい!)水俣病の被害者の方のお宅に泊まってお話を聞いたり、広島で被爆者の方のお話を聞いたり、薬害エイズ裁判の原告の方のお話を聞き学園祭で模擬裁判を行ったりなど活動は多彩でした。弊所の工藤弁護士も頻繁に人権ゼミの活動に参加して学生のお世話をしてくれていました。また、残業を一度断っただけで解雇された日立武蔵工場の田中秀幸さんや嫌がらせ配転で子育て中にもかかわらず目黒から八王子に配転されたケンウッドの柳原和子さんなど労働争議の当事者と出会ったのも学生のころでした。

こうした活動や出会いを経験して、「やはり弁護士になりたい」という思いが強くなり、大学3年間全く勉強せずに過ごしていたのに、4年生から受験勉強を始めることになりました。大学での体験が、弁護士になりたいという思いを強く大きくしたのだと思います。

このころ出会い、お世話になった皆さんに恩返しをしたいという思いで日々の業務にあたっています。