城北法律事務所 ニュース No.85 2022 新年号 (2022.1.1)

目次

城北法律で50年あまり
国労池袋のたたかい、そして坂本堤さん

弁護士 菊池  紘

編集者から城北での50年余りを書けという。とてもこんなスペースでは書けないが、事務所のみんなで努力した国鉄闘争について書こう。そしてあっという間に強い印象を残して走り去ってしまった坂本堤さんについて。

国労池袋のたたかい

長い城北法律での仕事の中で、事務所をあげたとり組みとして国鉄闘争があります。国鉄労働組合(国労)は、国鉄の「分割民営化」に反対し、これを支持して全国に1300を超える地域共闘がつくられ、中央にも「国民会議」が結成されました。豊島では「豊島区民の会」(事務局長佐々木芳男弁護士)ができ、練馬、板橋、文京にも支援の会、そして「北部連絡会」へと大きな広がりをみました。

1987年4月のJR発足とともに、国労池袋地区では32名の山手線電車運転士はじめ73名が国労の旗を守っていることを理由にその本来の仕事を奪われ、駅ホームの売店、清涼飲料水「大清水」の詰め替え、貨車解体などに差別配属されました。国労池袋は、本来の仕事に戻すことを求めて東京都地方労働委員会に不当労働行為救済の申し立てをしました。運転士と検査修理の池袋運転区の事件、池袋と大宮の車掌の事件、池袋、大塚、巣鴨、駒込の駅員の事件が、並行して審理されました。

都労委審理の写真を見ると、代理人席に佐々木、田崎、河内、阿部、菊池が並んでいます。「豊島区民の会」では千代崎、村山、清水など事務局員もその活動を担いました。文字通り城北法律をあげての取り組みでした。

3年余りの審理を経て、運転区、車掌区、駅といずれも労働委員会で勝訴しました。命令は配属の取り消しと元職場への復職を命じました。運転区の勝利を伝える「勝たせる会」ニュースには「国労魂を貫き続けた男たちへ」と題した佐々木芳男さんの短い文章が載っています。「待ちに待った命令が出た。完全・全面勝利。一点の曇りもない、非の打ちどころのない完璧な勝利。地域と池袋地区協に支えられ、果敢に、素朴に働く者の根性で国労魂を貫き続けた男たちの闘いにふさわしい勝利である。自分の意思でたたかい、自分の手で命令をとり、まわりに共に喜ぶ仲間のいる男たちには誇りがある。しあわせである。」と。

申立人ら73名のうち多くの組合員が元の仕事に戻されましたが、残念ながら戻されないまま定年退職となった者もいました。

坂本堤さんと城北法律

坂本堤さんは城北法律事務所で司法修習生として修習しました。指導担当は私でした。坂本さんは私とともに国労池袋運転区に行き組合員と膝つきあわせて話し合いました。修習が終わると横浜法律事務所に入りました。折から火を噴いている国労横浜の労働委員会のたたかいに奮闘しているさなかの89年11月に都子さん、龍彦さんとともに拉致されました。救出を心から願う国労組合員の想いに背いて堤さんとその家族の遺体が発見されたのは6年後の9月の事でした。坂本さんの仕事を怖れ嫌ったオウム真理教の仕業でした。

それから20年になる2015年9月、私は、上越市での「坂本弁護士追悼コンサート」に参加しました。毎年もたれているコンサートの10回目です。日フィルの松本さんのヴァイオリンとピアノ、そして澄んだソプラノの歌、地元の女声コーラス等々に、200名の聴衆が聴き入りました。求められて、閉会の前にわたしは次のように話しました。

「坂本堤さんが私どもの事務所で司法修習をしてからちょうど30年になります。当時28歳だった坂本さんはどういう青年だったのでしょうか。彼は修習生の時に次のような文章を書きました。『世の中変わった、オイラも変わらなくちゃいけないなんて、なにもせっつかれて慌てて小さくなることはない。年寄りも嘆くことはない。昔と同じ心根が僕ら若者の中にもそのまま残っているのだから』と。先輩の年代の人々と同じく強くしっかりしたもの、心根を僕ら若者も持っているよ、と訴えたのですね。

そしてこれに続けて、城北法律事務所について書いています。『城北の仕事をみていると、それは、弁護士がよく口にする「解決」という営みだけでなく、その中に重要な変革があることに気づかされる。社会の変革、集団の変革、依頼者・関係人個人の変革、そして弁護士自身の変革』と。この短い文章のなかにくり返しくりかえし『変革』という言葉が重ねられているのです。

さらに坂本さんはこう続けます。『たくさんの変革にまみれることが、若者のためらいと不安を振り払う。僕らはそんなにしらけちゃいないんだ! 眼前にある変革の息吹をすら、感じられないほど、臆病でもないんだ』と。

私は坂本堤さんの話が出るたびに彼のこの短い文章を口にします。城北法律事務所についてくり返し『変革の息吹』を言う、この一文が思い出されるのです。

私は、坂本堤さんが言い遺した変革の課題を追い続けたいと思います。」