城北法律事務所 ニュースNo.91 2025新年号(2025.1.1)

小林幹治先生を偲んで
昨年十月七日 弊所弁護士の小林幹治先生が永眠されました
頑固に同じことをいい続けた小林さん

弁護士 菊池  紘

1968年に城北法律に入所したら1年前に入った小林さんがいました。すぐに「山に登ろう」と誘われて若手弁護士と事務局員が集まり、飯能からバスにのり、爽やかな沢を遡って棒の嶺に登りました。帰りに雨にあたり一同で石神井公園の小林さんのマンションに逃げ込んで、奥様のお世話になりました。10年くらいして、僕と小林さんの夫婦二組で野辺山の貸別荘に泊り、翌日は広いレタス畑の中の一本道をえんえんと歩いて八ヶ岳高原ヒュッテにいきました。途中の杣添川の渓流の畔で奥さんにコーヒーを入れて頂きました。佐藤浩市が「高原にいらっしゃい」で主演したあの高原ホテルです。

小林さんは書いています。「私が生まれたのはウォール街で株式の大暴落が始まり世界恐慌に発展しようとしている1929年」と。「大学進学前、半年ほど小学校の代用教員をやったことがある。受け持った6年生のクラスの中で3人の生徒の顔をついに私は見ることができなかった。3人とも貧しい漁師の子弟で漁船に乗っていたのである。戦争で一家の支柱を失い、大したことができるとも思えないが、それでも一家の働き手として沖へ出た生徒をどうすることもできない。私がこの社会の仕組みに具体的に目を向け始めたのは、この現実だったように思う」と。そして「ともあれ長い戦争、敗戦の中で育った昭和一ケタ世代は食べ物が悪かったせいか、大変弱いといわれている。せいぜい体を大事に使いながら歴史の歯車を押し続けていきたいと念願している」と。(城北法律30周年パンフレット「明日にむかって」1985)

今回あらためて事務所の10年ごとのパンフレットをひも解いて見ました。2005年のその見開きに全員がそろった写真があります。横に並んだ所員27名の列のその前に一人だけ踏み出した小林さんがいます。これを見ながら、城北法律のつながりの真ん中に常に小林さんがいたことをあらためて考えました。

2015年のパンフレットで小林さんは「憲法9条への思い」を書いています。改憲の「ねらいが憲法の柱である9条を変えることであることははっきりしています。9条を改廃すること、それは戦争に加担すること、何の責任もない誰かが、またあの戦火にさらされることだと思います」と小林さんは書いています。そしてまた「からだを大事に使いながら歴史の歯車を押し続けていきたいと念願しています」と。30年を経ても頑固に同じことを言い続けた小林さんです。

わたしも小林さんの重い言葉を受け止めて努力したいと思います。

小林先生

弁護士 小薗江 博之

小林先生は、1982年に私が28歳で入所したとき52歳で、同じ巳年生まれの先輩でした。当時、東京信用金庫の労働事件などを担当されていましたが、民事事件では、不動産関係訴訟(代理人は他に青柳盛雄弁護士)で勝訴し、判決が重要判例として、判例時報に掲載されました。判決が掲載されることは滅多にないのです。

所内でテニス会を主催され、高田馬場のテニスコートで汗を流しました。桑原弁護士、佐々木弁護士、川崎弁護士のほか、千代崎さん、飯田さん、宮脇さんら事務局も参加し、終わった後、高田馬場で飲み会を開きました。事務所の発展のために、積極的にお声掛けしていただいていました。

入所当時、裁判所に提出する書面は、和文タイプ縦書きでしたが、小林先生は、1985年に事務所で先陣を切ってワープロを購入し、切り替えました。その後所員が次々と小林先生の後に続きました。

1987年の家族も参加する新年会で、小林先生が開会のあいさつで「順風満帆」とおっしゃったのも思い出されます。小林先生のそれまでの20年間では、事務所は不安定経営を余儀なくされ、その中で事務所を支えてきたと言う思いから出た言葉と思いました。

その年の初めに、私に長女が生まれたのですが、小林先生ご夫婦で、出産を祝ってたくさんの品をいただきました。当時は、まだ事務所も小規模で、家族参加の催しも多く、事務所全体が家族のような雰囲気がありました。

次から次へといろいろなことを思い出されてしまいます。昨年9/24に、病院でお会いしたのが最後になりました。ご冥福をお祈りします。

小林先生との思い出

弁護士 大山 勇一

私が弁護士になってすぐのころ、小林先生とは借地借家の訴訟を、控訴審からご一緒させていただきました。小林先生は、その当時70歳を超えておられたと思うのですが、毅然とした態度で裁判官と意見をたたかわせつつ、最終的には和解によって依頼者に有利な解決策を導き出され、私はその姿勢に多くを学ばせていただきました。事務所内の会議では発言回数はほとんどないのですが、ひとたび言葉を発するときには、思わず背筋を正されるということが多くありました。「論語」に「君子は言に訥にして、行いに敏ならんと欲す」との言葉がありますが、まさにその人物像を体現するかのような、軽々なことは口にしない実践家だったと思います。ご冥福をお祈り申し上げます。

小林先生の晩年

事務局 新庄  聖

小林先生が入居された施設に、私とOBの飯田さんが会いに行ったときのこと。先生は「耳は遠くなったが目はいいんだ。」とおっしゃって、新聞や本をよく読んでいるとのことでした。斉藤幸平著『人新世の資本論』も読んでいたようです。2022年11月に同じ施設で暮らしていた妻の久子さんが亡くなる少し前には、外出してショートケーキを1つ買ってきて2人で食べるんだと嬉しそうに話していたのを覚えています。

昨年9月に肺炎で入院され、菊池弁護士、小薗江弁護士と3人でお見舞いに行きました。そのときはまだ意識がはっきりしていて、私が持参した数日前の新聞記事(複数の所員が日比谷野音での戦争法廃止を求める集会で1面カラーで写っている)をお見せしたところ、ゆっくりと笑顔で「みなさんによろしく」と3回繰り返されました。これが私との最後の会話でした。

小林先生との思いで

事務局 黒田 真一

2000年の春、自由法曹団の5月集会が静岡・浜松で行われ、私と小林先生も参加しました。

終了後、小林先生から誘っていただき、一緒に帰ることになりました。

私はまだ入所間もない頃で右も左も分からぬ中、所員の方から小林先生はとても厳格な方だよ、と聞かされていたので、もう緊張の極致です。

また小林先生は寡黙な方なので、どんどん緊張が高まります。

「お昼を一緒に食べようか」「はい!」

食事中の会話は

「おいしいねえ」「そうですね!」

帰りのバスまで時間があいており、たまたま近くにちょっとした魚の骨の展示室のようなところがありました。

「これを見ていこうか」「はい!」

「このサメは大きいねえ」「はい!」

会話はこの程度だったと記憶しています。

時が経ち、確かに小林先生は仕事や平和を貫く姿勢などには厳格な方でした。

しかし、とてもやさしく、本当に穏やかな方で、素敵な先生でした。

小林先生と約25年もの間、仕事や活動をともにできたことを誇りに思います。

心よりご冥福をお祈りいたします。